約 49,767 件
https://w.atwiki.jp/raw3/pages/16.html
略歴 2010年3月に配信活動を行い、さまざまな企画の立ち上げや参加を行う。 24時間を超える長時間配信を何度も行なっており、ゲームをしながら視聴者と雑談をする事が多い。 ゲーム以外にも、作詞作曲での企画参加や配信内番組の企画主催などを行うことがあった。 2013~2017年まで活動を休止。 2018年より活動再開。 活動履歴 年 月 概要 2007 やぶさめ(仮)名義でニコニコに実況プレイ動画「がんばれゴエモン外伝2天下の財宝」をあげる。現在、動画は全て削除。 2010 3 rawとして配信スタート。龍が如く4をクリアまで不眠で配信、結果36時間の配信を行う。 2010 5 48時間配信を行う。龍が如く4サブストーリーの全クリを目指す。最後のサブストーリーでの亜門戦で時間切れ。 2010 7 「26時間テレビに負けない真夏の26時間配信」を行う。26時間内のクリアを目指す。配信者19名が参加。同企画のトピックがチェッカーサイトの半数を埋めた。最高視聴者数は120人ほど。 2010 8 「世界のrawさん」に改名。前述の企画にて視聴者数や反響はあったが、一次に上がれなかった事から由来する。以後、自画自賛とそれを突っ込むチャ民という構図が生まれる。 2010 ? ラジオ「なまいぬ」をスタート。15回程を約半年やって自然消滅。 2011 4 衝動的なシノダ氏主催のコンピレーションアルバム「We love Ustream Checker」の1曲目「ちぇっかーのてーま」を作詞作曲。 2011 9 企画「はんぎょじんのジレンマ」を主催。「ココリコミラクルタイプ」のようなのを配信で出来ないか?」という発案のもと行われ、普段配信をしないチャ民や絵師も参加に加わった。最高視聴者70人。 2012 ? チェッカー小説大賞に乗じた朗読会(京極氏が主催)にて「レヴィアたん」を朗読 2012 4 企画「はんぎょじんのジレンマ2」を主催 2012 ? ボカロ曲を2曲ほど作る。黒歴史として削除。 2013 活動休止。仲間内で遊ぶためにTRPG「クトゥルフの呼び声」のwikiを製作していたが、一部のチェ卓関係の人にリンクを紹介されていたっぽい。 2018 9 活動再開。「あの頃はrawさんがいた」に改名。
https://w.atwiki.jp/hazuki-sora/pages/11.html
※敬称略 日付 内容 2021.08.21 葉月宙 初配信 2021.09.18 Zoooオーディション参加 2022.01.08 VSingerオーディション参加 2022.03.23 VSingerオーディション 最終選考進出 2022.04.02 VSingerオーディション 合格決定 2022.05.04 初カバーアルバム「with u」配信開始 2022.08.21 配信開始1周年 2022.09.13 Live2Dお披露目 2022.09.21 歌ってみた1作目(ファンサ)投稿 2022.10.21 歌ってみた2作目(少女レイ)投稿 2022.11.04 コンピレーションアルバム「V-TUNE NEXT」配信 2022.11.05 「V-TUNE NEXT」リリース記念ミニライブ(共演:久遠たま) 2022.11.21 歌ってみた3作目(ひとりぼっちのひとりごと)投稿 2022.12.10 歌ってみた4作目(可愛くなりたい)投稿 2022.12.11 歌ってみた5作目(ミュージックミュージック)投稿 2022.12.12 歌ってみた6作目(可愛くてごめん)投稿 2023.01.16 チャンネル登録者数777人達成 2023.01.18 チャンネル登録者数800人達成 2023.01.21 歌ってみた7作目(誇り高きアイドル)投稿 2023.01.28 オリジナル曲1st&MV公開 2023.02.10 Vtuberスタイル紙面掲載コンテスト参加 2023.02.25 歌ってみた8作目(ギラギラ)投稿 2023.02.27 チャンネル登録者数1000人達成 2023.03.01 Vtuberスタイル紙面掲載コンテスト4月号1/2ページ掲載決定 2023.03.22 歌ってみた9作目(ダンスロボットダンス)公開 2023.04.17 歌ってみた10作目(クライヤ)公開 2023.04.29 歌ってみた11作目(強風オールバック)公開 2023.07.13 歌ってみた12作目(Unknown)公開 2023.08.15 10人プロジェクト(daze)参加 2023.09.23 歌ってみた13作目(いかないで)公開 2023.11.10 大型リニューアル(モデル等々) 2023.11.16 コラボ歌ってみた(フタリボシ:紫音ゆむ)公開 2024.03.29 Vtuber18人コラボ(Palette Story)参加 2024.04.01 コラボ歌ってみた(メンヘラじゃないもん:甘咲クッキー)公開 2024.04.10 歌ってみた14作目(プラネテス)公開 2024.05.01 音楽ユニット「OTOKAZARI」結成(相方:難波研) 2024.05.01 「OTOKAZARI」1曲目(Melody.)公開 2024.05.31 歌ってみた15作目(僕が初めて泣いた日)公開 2024.07.27 もぐライブV参加 2024.08.10 オリジナル曲2nd MV公開
https://w.atwiki.jp/d51451preservation/pages/15.html
各種資料に基づくD51 451の経歴を掲載します。 もっと詳細な履歴がみつかりました。 機関車データベース D51451 を参照。 時期 所属などの情報 1940年02月27日(昭和15年) 汽車製造大阪工場にて製造 製番(製造番号)1870東京局配属 営業稼働開始 1948年07月(昭和23年) 白河機関区 1949年12月16日(昭和24年) 宇都宮機関区 1955年08月01日(昭和30年) 白河機関区 1958年10月02日(昭和33年) 宇都宮機関区 1960年06月01日(昭和35年) 大宮機関区 1963年06月(昭和38年) 大宮機関区 1966年05月18日(昭和41年) 大宮工場 副灯(予備灯)装備 1966年07月01日(昭和41年) 大宮機関区 1967年02月04日(昭和42年) 新鶴見機関庫 ????年??月??日(昭和??年) ATS-S装備 ????年??月??日(昭和??年) 回転火粉止装備 1967年08月08日?~08月09日?(昭和42年) 米軍燃料輸送列車事故 (リンク先 Wikipedia) の救援車両牽引を行う。新宿駅に蒸気機関車が来たのは山手貨物線から蒸気機関車が消えてから11年目。 1968年02月23日(昭和43年) 稲沢第一機関区 での確認履歴あり鈴木英一さん 鉄道写真帳「蒸機の匂った時代」 より煙突にはまだ回転火粉止が付いている時期。運転室から後方に向かって伸びている炭水車石炭庫への散水パイプはまだまっすぐになっている(現在は曲がっている)。後灯もあり、後部標識灯は公式側に付いている。砂箱の開閉ロック取手も付いている(現在は紛失) 1968年03月xx日(昭和43年) 炭水車全検? 公式側第一台車第二軸に「シ43-3」の表記より推測 1970年7月20日(昭和45年) 制動弁脚台、国鉄郡山工場にて検査(単独ブレーキ弁、自動ブレーキ弁に「45.7.20 KY」表記記載あり)「KY」は郡山工場 ????年??月??日(昭和??年) 炭水車第二車軸車軸箱 C58177のものを転用(車輪と車軸も?上記全検時の可能性もあり) 1970年11月28日(昭和45年) 廃車 新鶴見機関庫 1970年12月28日(昭和45年) 国鉄 工作局の通達文書 工車第146号にD51451が含まれた(通達内容は不明) 1970年??月??日(昭和45年) 国鉄 工作局長通達「廃用蒸気機関車の貸付けについて(通達)」「昭和45年12月28日付工車第146号をもって通達したもののうち、D51451号車は、別紙のとおり、部外貸付けを承認したので解体を取り止め、東京西鉄道管理局長との協議のうえ、所定の手続きを取られたい。」 1971年03月23日(昭和46年) 昭島市が国鉄との車両賃借契約締結。 ????年??月??日(昭和??年) 回転火粉止撤去 1971年03月24日~28日(昭和46年) 25日に甲種輸送 新鶴見から青梅線 中神駅に到着。立川基地中神引き込み線(中神側線)で立川基地に搬送。26日には立川基地内で搬送の準備、28日に日通のトレーラーで昭和公園に輸送(車体は機関車部と炭水車の2分割で輸送→ 昭島市の補修資金募金のページ を参照)。 1971年04月04日(昭和46年) 東京都昭島市の昭和公園に静態保存の設置完了。公開式典を開催。 1971年08月30日(昭和46年) 塗装工事 実施 1972年04月??日(昭和47年) 展示開始からこれまでの期間に前照灯と副灯のガラスが割られる。 ????年??月??日(昭和??年) 煙突に目板(塞板)設置 ????年??月??日(昭和??年) 前照灯が交換される(LP42→LP403?) ????年??月??日(昭和??年) 後灯が撤去される 1975年頃(昭和50年頃) 塗装工事 実施 1979年02月20日(昭和54年) 塗装工事 実施 1986年03月27日頃(昭和61年) 国鉄 大宮工場による出張塗装修繕工事 実施 1987年02月26日頃(昭和62年) 国鉄分割民営化に伴い、無償賃借契約を東日本旅客鉄道(株)へ引き継ぎ (JR東日本 八王子支社) 1992年01月17日(平成4年) JR東日本 大宮工場にて出張補修が行われた様子( 第一空気溜や運転室側面の補修履歴表示 (「4・1・17 OM」の表示や「4・1 大宮工」の表示)から)。おそらくシリンダーカバー部の交換や、罐胴被継ぎ目のシーリング、穴あき部はブチルゴム系シート+アルミテープによる補修が行われた模様。 1997年11月21日(平成9年) 補修及び塗装工事 実施 2003年10月25日以降(平成15年以降) 公式側、非公式側運転室窓ガラスが割られた様子(「大ちゃんの昭和公園 D51 451(保存)写真」で確認、 大ちゃんの鉄道写真館 にて、「サイトマップ」のリンク先へ飛び、ブラウザの検索機能で「D51451」を検索し、「昭和公園(昭島市) D51451(保存)」をクリック)(ページ内の検索機能は使えない場合がある様子) 2005年09月05(平成17年) これまでの塗装・補修の履歴2回について昭島市議会議事録【平成17年09月定例会(第3回)-09月05日-03号】にて市議会答弁の記載があった。 2006年01月(平成18年) アスベスト飛散有無の調査が終了し、飛散はないとのことから公開が再開された(市議会議事録 【平成18年06月厚生委員協議会-06月19日-01号】より) 2008年04月01~2009年3月31日のいずれかの日より(平成20年度) 転落事故防止等のため一般公開中止 2010年01月25日(平成22年) アスベスト除去および封じ込め工事終了 2019年09月~(令和1年) 昭島市がクラウドファンディング・ふるさと納税・市税を併用し、車体の全面補修を計画。2020年04月から改修工事予定(諸般の事情により延期中、別途市が告知予定中)詳しくは下記市のページを参照 D51を甦らせよう! 改修のための寄附にご協力をお願いします 2020年11月~(令和2年) 展示柵に枕木交換工事開始の掲示がされた。期間は2020/10/20~12/02、保線作業専門の業者により行われる。 2020年12月(令和2年) 業者による補修が開始される。 2021年3月末(令和3年) 業者による補修が終了した。 2021年8月1日(日)(令和3年) 補修後初めての公開を開始した。 参考資料 レイル・マガジン2008年9月号付録「機関車表」沖田佑作氏編 D51 451 が静態保存されている昭和公園の掲示内容 ※昭和11年:西暦 1936年 ※昭和20年:西暦 1945年 ※昭和15年:西暦 1940年 ※昭和42年:西暦 1967年 ※昭和45年:西暦 1970年 ※昭和46年:西暦 1971年 D51451展示場所に掲載されている文 蒸気機関車 D51-451 D51.型蒸気機関車は、「デコイチ」の愛称で親しまれ、昭和11年から昭和20年までに1115両も製造された日本の代表的な蒸気機関車であります。 このD51-451は昭和15年2月汽車会社から国鉄に納入され、東京、仙台、高崎の各鉄道管理局に配属され、横浜市内にある高島線を最後に引退するまで客貨輸送に活躍し、関東、東北地方の産業、経済、文化の発展に多大の貢献をしました。 この間30年 約176万キロメートル(地球を43.8周、月への距離2往復)を走行しましたが、昭和42年新鶴見機関区に所属され、国鉄の動力近代化にともなって昭和45年11月引退したものであります。 昭島市では引退後のこの機関車が昭和公園の一隅で静かな余生を市民に愛され子供たちの科学の夢を育て、また教材に資するため、国鉄から貸与を受けて、ここに展示したものであります。 重量 86.7t機関車 68.5t炭水車 18.2t長さ 19.5m機関車 12.18m炭水車 7.32m幅 2.78m高さ 3.98m動輪直径 1.40m走行距離 1.755.257.9m→(編集注 1,755,257.9km が正しい)昭和46年4月昭島市 TADAさん作成の外部リンク 「保存車のページ」にある、府中市郷土の森 交通公園に保存されている D51 296 の表示板を見ると…文言のフォーマットはD51 451のものとほとんど同じ様子…これは国鉄からの貸与時に同じフォーマットで渡されるのかな…? むこうは「デゴイチ」に書き直したような感じがあるけど…。 車両の塗装は光沢ありのものと光沢なしのマット塗装、保存環境としてはどっちがいいんだろう…?できれば塗料に光触媒を混ぜて、触媒が日光で反応して汚れを浮かして雨で汚れが勝手に落ちるようにするといいかも…?問題は水がたまるところの撥水性か… 2021年10月15日追記 塗料は基本的に光沢塗料を作り、それにマット(光沢無し=つや消し)になるように添加するが、そうすると塗装の持ち(経年劣化・耐候性)が悪くなるとのこと。つや消し塗装は現役時のようなかっこよさはあるが、雨や土埃の流れやすさ、掃除のしやすさなどを考えると光沢塗装でいたしかたないと思われる。光沢でも経年すると光沢は薄れてくるので、それまで待つのもいいかもしれない。 2021年11月15日追記 広報あきしま 2021年10月15日号の5ページにて、D51451改修費用が掲載されていましたので転載します。原本(PDF)は こちら を参照ください。 広報あきしま 2021年10月15日号掲載 D51451の改修費用 編集用リンク D51 451経歴の実データ置き場
https://w.atwiki.jp/tunagu_yumu/pages/13.html
2022/1/22 テスト配信 2022/1/24 初配信(ミクチャ) 2022/1/29 Re AcTオーディション参加 2022/4/30 ミクチャでの配信活動を基本的に休止 2022/5/1 ツイキャスでの配信開始 2022/8/7 Youtubeチャンネル初投稿 2022/8/18 初歌ってみた投稿 2022/8/31 非公式Wikiの開設 2023/1/19 Vtuber Fes Japan 2023NEXT GENERATIONリーグオーディション参加 2023/1/24 活動1周年記念配信 2023/3/2 FANBOX公開 2023/3/10 初ソロ歌ってみた公開 2023/6/24 UTAITE Festival vol.3 in OSAKA 参加 2023/7/1 熱血夏フェス2023参加 2023/7/3 誕生日配信をもって一時活動休止 2023/8/27 コラボ歌みた公開 2023/9/3 紫音ゆむとしてデビュー 2023.10.27 MOESTA+見開き掲載 2023/11/18 UTAITE STATION vol.3 出演 2024/1/6 初APEXカスタム参加(Punchカスタム) 2024/1/14 Youtubeチャンネル登録者1000人突破 2024/1/29 Youtube収益化 2024/2/22 よんふれ結成 2024/3/3 デビュー半年記念 2024/7/3 初ソロ歌みた発表
https://w.atwiki.jp/joynet_biz/pages/9.html
https://w.atwiki.jp/wind-and-leaf/pages/13.html
1999年 1999.03.22(月) 加藤音楽事務所春ライブ@加藤音楽事務所Old Folks At Home 1999.11.07(日) 加藤音楽事務所秋ライブ@ハイジャック旭川Love is in My Sight 2000年 3月 加藤音楽事務所春ライブ@加藤音楽事務所Omens of Love 10月 PLEASUREライブ@学校祭Mermaid とまどい 2000.11.12(日) 加藤音楽事務所秋ライブ@ハイジャック旭川ムーンライト・セレナーデ We re All Alone Rock around the Clock 2001年 3月 PLEASUREライブ@予餞会Happiness (GLAY) 誘惑(GLAY) 卒業~graduation~ 2001.04.04(水) PLEASUREライブ@サン・アザレア誘惑(GLAY) 微光 とまどい(GLAY) HAPPINESS (GLAY) 生きてく強さ(GLAY) pure soul (GLAY) SOUL LOVE (GLAY) 卒業~graduation~ MERMAID (GLAY) BE WITH YOU (GLAY) 2001.06.24(日) 加藤音楽事務所春ライブ@加藤音楽事務所Leave Me Alone いつか王子様が The Dock of the Bay Route 66 2001.07.07(土) PLEASUREライブ@学園祭生きてく強さ(GLAY) BE WITH YOU (GLAY) BE-LIE-VE(GLAY) BLACK CAT 2001.08.11(土) 「ん?」(YAP)ライブ@加藤音楽事務所 2001.12.02(日) 加藤音楽事務所秋ライブ@ハイジャック旭川Unexpected Lover Nica s Dream 2001.12.08(土) YAMAHA管カラAutumn Leaves 2002年 2002.03.31(日) 戸沢音楽教室ライブTwilight In Upper West 2002.05.19(日) 加藤音楽事務所春ライブ@加藤音楽事務所Bossa Grigia マック・ザ・ナイフ ウォーターメロンマン 7月 POPSAURUSライブ@加藤音楽事務所 7月 PULSEライブ@加藤音楽事務所IT S MAGIC LEAVE ME ALONE KNIGHT S SONG BECAUSE 明日への扉 TRUTH 2002.07.13(土) PULSEライブ@学校祭 2002.07.14(日) POPSAURUSライブ@学校祭 2002.12.15(日) 加藤音楽事務所秋ライブ@加藤音楽事務所Rise チキン 2003年 2003.02.11(火) YAMAHA管カラYesterday Once More 2003.05.10(土) 「蕎麦の秘密」ライブ@加藤音楽事務所Autumn Leaves 2003.07.12(土) 「蕎麦の救世主」ライブ@学校祭Black Market Bird Land Nica s Dream Autumn Leaves 2003.07.12(土) 「CAN」ライブ@学校祭 2003.07.13(日) 「PULSE」ライブ@学校祭Knight s Song Rydeen Truth Beyond The Dawn Victory 2003.07.13(日) 「II獣壱聖飢」ライブ@学校祭 2004年 3月 長坂氏弟子らの卒業ライブ@YAMAHA旭川Truth Chicken It s magic 8月 HOT LINE 2004「蕎麦の救世主」@島村楽器旭川Mario Underground Funk 11月 Bossa Nova Live@学園祭イパネマの娘 Meditation Summer Samba triste wave 2005年 2005.05.29(日) EVENT 2005.06.12(日) EVENT 2005.08.05(金)-06(土) EVENT 2005.10.01(土) EVENT 2005.11.26(土)-27(日) EVENT 2006年 2006.03.17(金)-18(土) EVENT 2006.04.15(土) EVENT 2006.05.27(土)-28(日) EVENT 2006.06.11(日) EVENT 2006.08.04(金)-05(土) EVENT 2006.11.03(金) EVENT 2007年 2007.06.23(土) WOAライブ@新宿Golden Egg 2007.11.11(日) WOAライブ@渋谷NOB 2007.11.24~25 極音ライブ@学園祭 2007.12.31(月) WOAライブ@渋谷NOB 2008年 2008.02.10(日) テイク・ファイブ20周年パーティー@旭川グランドホテル 2008.03.02(日) WOAライブ@渋谷NOB 2008.03.15(土) WOAライブ@荻窪ルースター・ノースサイド 2008.05.25(日) DDSライブ@渋谷NOB 2008.06.01(日) DDSライブ@池袋ロサ 2009年 2009.05.09(土) WOAD@渋谷NOB 2009.08.23(日) TORA with wind and leaf@渋谷NOB 2009.09.19(土) WOAライブ@江古田クラブドロシー 2010年 2010.05.29(土) WOAライブ@江古田クラブドロシー 2011年 2011.02.27(日) WOAアコースティックライブ@目黒Live Station 2011.05.12(木) 社内ライブ 2011.07.16(土) WOAアコースティックライブ@荻窪ルースター・ノースサイド
https://w.atwiki.jp/sadden_zeus/pages/15.html
Zeus 2010年9月、ID取得。 活動場所は昆虫カテ 基本的な活動内容は自作自演 その後、AKBの登場と共に 2011年6月より アイドルカテゴリでアンチ活動を。 2011年7月、雑談カテゴリに。 ゲキサド隊と紛争を。 その後和解し、ゲキサド隊入隊。 知識の多さを買われてサブリーダー昇格。 ゲキサド隊入隊後すぐに 四天王の仁とリーダーゲキサドが リオによりライフゼロに。 のちにZeusはメンバーと裏で手を組み 復活して間もないゲキサドをリーダーから落とす事に成功。 リーダーをZeusとし、改名をし「シュツルム隊」として活動。 マーベラスと話し合ってマハラジャ連盟をつくる。 しかし、活動内容が曖昧だったことから、自然消滅。 Zeusはフリーに。 そこで、マーベラス、アマツカミらと協力、「Speedファミリー」創立に成功。 地道な宣伝のおかげか、メンバーは21人に。 しかし、責任が大きすぎる事をキッカケに辞退。 頭を失ったSpeedファミリーは解散。 それよりZeusはどこにも所属することなく現在に至る。
https://w.atwiki.jp/serkan_anilir/pages/2.html
FOR ENGLISH READERS Blog (introductory) Blog (detailed) メニュー トップページ 経歴と業績 疑問点の検証(経歴編) 疑問点の検証(業績編) 剽窃(盗用)・著作権侵害の可能性 雑多な情報 自然科学、科学技術についての知識の検証 よくある質問 セルカン年表 テンプレ セルカン氏の疑惑とは? アニリール・セルカン氏の経歴詐称、業績捏造の追及blog twitter セルカン buzztter セルカン 合計: - 今日: - 昨日: - トップページの合計: - リンク @wiki @wikiご利用ガイド ここを編集
https://w.atwiki.jp/tondemo/pages/21.html
■1958(昭和33)年:00歳 1958年05月22日:唐沢俊一:北海道札幌市に誕生 札幌駅近くの薬局の長男として誕生(現在その店は義弟が経営) ■1959(昭和34)年:00〜01歳 ■1960(昭和35)年:01〜02歳 ■1961(昭和36)年:02〜03歳 1961年10月21日:弟・直樹(唐沢なをき)誕生。 ■1962(昭和37)年:03〜04歳 ■1963(昭和38)年:04〜05歳 1963年10月20日:アニメ「鉄人28号」放送開始 ■1964(昭和39)年:05〜06歳 ■1965(昭和40)年:06〜07歳(小学1年生) ■1966(昭和41)年:07〜08歳(小学2年生) 1966年1月2日:特撮番組「ウルトラQ」放送開始〜7月3日 1966年5月25日:アニメ「鉄人28号」放送終了 ■1967(昭和42)年:08〜09歳(小学3年生) ■1968(昭和43)年:09〜10歳(小学4年生) ■1969(昭和44)年:10〜11歳(小学5年生) ■1970(昭和45)年:11〜12歳(小学6年生) 夏休みの読書感想文でジェロームKジェロームの『ボートの三人男』獅子文六の『てんやわ んや』『朝鮮童話集』など(「カルトな本棚」より) ■1971(昭和46)年:12〜13歳(中学1年生) 星新一「妄想銀行」を読み、もの書きになりたいと思う。 友人たちに星新一を啓蒙し、ガリ版刷り同人誌を友人と作り始める 読書委員に任命され星新一などを学校図書館に置こうと運動 ■1972(昭和47)年:13〜14歳(中学2年生) ■1973(昭和48)年:14〜15歳(中学3年生) 中学の時に蔵書がすでに1000冊を超えていた ■1974(昭和49)年:15〜16歳(高校1年生) 1974年10月「宇宙戦艦ヤマト」放送開始。〜1975年3月 ■1975(昭和50)年:16〜17歳(高校2年生) ドイツの大長編SF「ペリーローダン」ファンクラブを結成。雑誌「SFマガジン」にファンクラブ結成の広告を出し、ドイツ「ペリーローダン」の出版元にまで許可を得る当時の「SFマガジン」にはそのような広告が一切なく、この発言は虚言と考えられる。 自分の読書傾向は特殊らしい、と気がつく(「カルトな本棚」より) ■1976(昭和51)年:17〜18歳(高校3年生) 1976年:高校3年で「宇宙戦艦ヤマト」と出逢う(本放送の時、人気無くて...と先見の明がある事を何度も語る) 1976年:高校時代に「スターウォーズ」のファンクラブを作ろうと画策するが、会員があまり活動しないのでポシャる 札幌テレビSTVに古本屋「リーブルなにわ」で出来たサークルで「ヤマト再放送嘆願書」を送り、再放送される(唐沢曰く、その後ヤマトが評価されたのはこの活動が大きい)実際には1974年に「宇宙戦艦ヤマト」が放送された直後から雑誌『SFマガジン』内では「ヤマトはSFか?」という議論が熱く交わされており、その直後から兵庫県などで「ヤマト再放送運動」のサークルが立ち上がっている。唐沢のサークルはかなりスタートが遅い。もしかしたら唐沢は再放送を見てファンになったクチかも知れない。 北海道でヤマトの再放送率が高い、ヤマト関連のレコードが異常に売れるという事で、古本屋リーブルなにわの上にあるレコード店が発売元コロムビアレコードでも話題になる。 角川書店の営業マンが古本屋のサークルの伝言板に書かれた密度の濃い伝言を見て「これそのまま出版すれば売れますよ」と興奮するが、その伝言板の書き込みは捨てているというので、意気消沈して帰る。その営業マンが現在の角川書店社長、角川歴彦。 1976年12月:ヤマトのプロデューサー西崎義展がオールナイトニッポンのパーソナリティを務めており、この段階ですでに宇宙戦艦ヤマトが大ブームになっており、アニメとしては異例のアルバム『交響組曲宇宙戦艦ヤマト』が発売され、翌年TV版の再編集映画が公開されることが決定していた。 注記 上の赤字コメント(2007-12-26に加筆されたもの)に対してmk2という方からメールによる指摘がありましたので以下に転記しておきます。 唐沢氏の「経歴・年譜」に関しまして、すでにご存知の内容かも知れませんが、時期(年代)的な 記述に気になる個所がございましたので、今回、下記ご連絡いたします次第です。 <記> 1・>1976年12月:ヤマトのプロデューサー西崎義展がオールナイトニッポンのパーソナリティを >務めており、 確か、西崎氏が『オールナイト・ニッポン』のパーソナリティを担当されたのは、1976年ではなく 1980年か81年だったと思います。 2・>この段階ですでに、すでに宇宙戦艦ヤマトが大ブームになっており、 1976年12月時点では、まだまだマニアやファン達による「知るひと(達)ぞ知る」的レベルのブーム でした。翌77年夏に劇場版が公開されて以後、マニアやファン以外の(『ヤマト』を含めアニメに興味 なかったり、馬鹿にしていた)人たちにもその名前~存在が知られるようになり、まさに社会現象として 大ブームとなりました。 3・>アニメとしては異例のアルバム『交響組曲宇宙戦艦ヤマト』が発売され、翌年TV版の再編集映画 >が公開されることが決定していた。 『交響組曲宇宙戦艦ヤマト』(のLP)は、劇場版が公開された1977年の12月、クリスマス商戦用にリリ ースされたものです。ちなみに、同年同時期に『オールナイト・ニッポン』でオンエアされた4時間生放 送ラジオドラマ版『宇宙戦艦ヤマト』で使用されたBGMは『交響組曲~』の収録作品です。 尚、その前年の76年の年末時点で、劇場版の公開が決定していたか、どうか・・・については判りませ ん(編集作業は行っていたのでしょうけれども)。 つまるところ、1976年12月時点における『宇宙戦艦ヤマト』とは、たいへんマイナーな存在だったと いうことです。 (2010-01-07 まとめwiki管理人記) ■1977(昭和52)年:18〜19歳(浪人時代) 1977年:1浪:札幌で「宇宙戦艦ヤマト」のファンクラブを運営。本人曰く「ファンクラブ活動をするためにワザと1浪した」 ヤマトのプロデューサー西崎義展を札幌に呼ぶなど活動西崎義展は当時、編集版映画の公開を控えており、日本各地のイベントに顔を出しており、特別な事でもなかった。 東映「長靴をはいた猫」「大陽の王子ホルスの大冒険」自主上映会 1977年8月6日「宇宙戦艦ヤマト」映画版1作目が封切り。日本の映画で実写・アニメを含め公開初日に徹夜組が出た最初の作品となった。 ■1978(昭和53)年:19〜20歳(青学1年目) 1978年:1年浪人後、青山学院大学へ入学・下宿は阿佐ヶ谷 実家の仕送りは月7万円(かなり裕福な学生) 入学式の日、紀伊国屋ホールで「紀伊国屋アニメフェス」でベティーブープなどを見る。海外アニメに感動し、代表者の並木孝に長文の感想を送り「アニドウ」に入会 上京して初めて「ぴあ」という情報誌の存在を知る。この時期「年間365本以上映画を見る」を目標に映画館めぐり ■1979(昭和54)年:20〜21歳(青学2年目) 1979年:池袋の文芸座などにかかるB級映画館に入り浸る。 この時期、志水一夫とニアミスしていたかもしれないと 1979年4月「機動戦士ガンダム」始まる ■1980(昭和55)年:21〜22歳(青学3年目) 1980年:雑誌『ぴあ』12月19日号 (12/5 発売) の投書欄「YOUとPIA」に山賀龍一という人の書いた「望怪獣論」という投稿が載る。内容は、昔のゴジラやラドンみたいな、大人のための怪獣映画を望むというもの 雑誌『ぴあ』1月16日号 (12/27 発売) の投書欄に、唐沢の投稿「新怪獣論」が載る。内容は、「怪獣ファンたちが揃いも揃ってゴジラの復活だけを望んでいるのはいかがなものか」「我々が望むのはまったく新しい怪獣でなくてはいけない」とか。 ■1981(昭和56)年:22〜23歳(青学4年目) 雑誌『ぴあ』1981年2月13日号 (1/30 発売) 『ぴあ』投書欄に、DSC-桜井という人の「今もよくある、『怪獣は子どものため』論の典型」(by 唐沢) の投稿が載る。「リアリズムもファンタジーも、子どもの、邪心のない目で感じ取れればそれでいい」「大人だって子どもの頃に戻りさえすれば」「楽しめる映画なのです。」 唐沢の下宿に、差出人『東京ゴジラ団』の封書が届く。安全カミソリの刃が入っていて、「『2月号の桜井氏の言う通りだ。貴様に怪獣映画を語る資格はない』というオドシ文句が書かれた紙が一枚。」「これで、僕はキレた。これ以降、僕の『ぴあ』への投稿の筆致はどんどん嫌味になり、皮肉になり、攻撃的になっていく。」 雑誌『ぴあ』1981年3月13日号 (2/27 発売) 『ぴあ』投書欄に、唐沢の再反論が載る。「子供向けの作品が大人に面白くないのは仕様のないことなのでしょうか。いや、それより田中小実昌氏の名言があります。“僕はガキだからガキ向けの映画は面白くない”。ガキが、いや子供が、本当に面白がって見るのは大人向けの作品なんですよ」「そして、かのゴジラが問題意識を売り物にした最大の弊害が、そう言った思想とかテーマをもった作品こそが本当に優れたSF(!)なのだという誤謬をファンに与えたこと。センス・オブ・ワンダーもへったくれもあったものではない。第一、この誤謬はかなり危険なものであるのです。」んで、ここから『機動戦士ガンダム』の、批判というか罵倒に「横すべり」、と。 「今度映画化されるという、あの『機動戦士ガンダム』、あれくらい日本のSFファンの気質を嫌らしく具現化した作品を僕は知りません。」「ストーリーはハインラインの『宇宙の戦士』のエピゴーネン、お定まりの美形キャラ、ハデハデしいメカの行列、SF用語の羅列、反吐をつきそうな気障ったらしいセリフ。」「これだけなら単に陳腐というだけで別に取り立てて騒ぐ程のものでもありませんが、それを“戦争とは? 人類とは?”といったいかにもそれらしそうなテーマで飾って高級そうに見せかけているのが中・高生のSFファンにああまで奉られている理由です。」「こういった作品にファンが集まることが日本SFファンの思想好き、テーマ好き、深刻好みの性癖を如実に表しています。そしてその元凶とでもいうものがゴジラであるとするならば、桜井さん、僕がいいたいこともわかっていただけますまいか」 雑誌『ぴあ』1981年4月10日号 (3/27 発売)5月22日号 (5/8 発売)6月19日号 (6/5 発売) 『ぴあ』投書欄には、ガンダムファンによる擁護は載らず、日本SF映画に希望はあるかないかの話が「以前とほぼ同じ論調で」続いた。 雑誌『ぴあ』1981年7月17日号 (7/3 発売) 『ぴあ』投書欄に、ガンダムファンの投書が一挙2通掲載。その1通が「横浜の鴨打大輔という人」の『ガンダムへの誤解・一SFファンとして一言』。「思えば、ガンダムの不幸は、西崎義展に踊らされた“ヤマト”ブームとの酷似、さらには俗悪高千穂遥(この点はあなたに賛成)を筆頭に、アニメ誌や一部のファンの馬鹿騒ぎにあると思います」「とにかく見て下さい。『ガンダム』はもともとTV用ですからTVのガンダムを見て下さい。ご一報くだされば、私のところでご覧にいれます。見た上で、けなすなり何なりして下さい。しかし、そんな風にはならないはずです。自信を持って言えます」 雑誌『ぴあ』1981年7月31日号 (7/17 発売)8月14日号 (7/31 発売)8月31日号 (8/14 発売) 『ぴあ』に、唐沢の反論、唐沢への他の人からの反論や同意論などが掲載。ちなみに、唐沢の反論は「TV版ガンダムの、動画と呼ぶのもためらわれるような動きの極端にない場面を指摘して、“こういうのを優れたアニメとはどうしても呼べない”ことを再度提唱した」もの。 当時のぴあの編集長だった増淵氏が「あれは唐沢という人が最初にゴジラとガンダムの比較論を投書してき、“ゴジラはいいがガンダムはダメ”ということになっちゃって」という「いい加減な要約をしていた(笑)」(by 唐沢) とのこと。「論争があると、投書の数は増えるが、一般の読者のお便りを載せるスペースがなくなりますからね」 雑誌『ぴあ』1981年8月28日号 (8/14 発売)9月11日号 (8/28 発売) 『ぴあ』に、論争総括のコーナーが組まれる。“特集「YOUとPIA」”という題名で、2号連続で見開きページを取っていた。「どういう特集かと言うと、プロのアニメ関係者に話を聞いて、『ガンダムは是か非か』という回答をあおぐ、というものである。」 「アニドウ代表のなみきたかしは、『ぴあ』からの電話に唐沢という名前が出た途端に『ああ、あの男はうるさいですから相手にしないほうがいいです』と電話を切ったと言う」 「大森・森のお二人は、今のテレビアニメは面白くない、と口を揃え、『ケバケバしいリアリティのないロボットはやりたくない』(大森)『ガンダムには悪いけど、血が通っているのかどうかわからない』(森)と僕の意思に賛同してくれている」 「松本氏は、『(筆)言っていることはわかるけど、アニメを作るのは本当に大変なんだ。文句言うなら自分で作ってからにしてほしい』」 「手塚氏に至っては、『見る側にあれこれ要求はしたくないが、マニアというのはどうしてあんなに圧力をかけたがるのか。こういう場を借りて、自分の意見を押し付けようとしている』」 「そして、いちばん老獪だったのは、やはり当事者の富野氏だった。彼は、『極端な意見というのは、他人の意見として聞く場合には決して悪いことじゃないと思います。わかりいいからです。私見なんていうのは、独断と偏見という風なまやかしの言葉で飾るんじゃなくて、当然持ってしかるべきなんじゃないかと。むしろ、状況論は半分以上は事実でこれは中庸なことなんである、って示し方をすることの方がよほど危険だと思う』と、こちらの本当に言いたいことを先取りしてしまっている。このとき、心のどこかで『待てよ』と踏みとどまらねば、僕は大学卒業後、富野氏の門を叩いたかもしれない。」 ■1982(昭和57)年:23〜24歳(青学5年目) ■1983(昭和58)年:24〜25歳 1983年3月(6年いたとされる話より)卒業 ■1984(昭和59)年:25〜26歳 ■1985(昭和60)年:26〜27歳 ■1986(昭和61)年:27〜28歳 ■1987(昭和62)年:28〜29歳 1987年頃:文筆業としてデビュー(地域ICT未来フェスタのHPによると) ■1988(昭和63)年:29〜30歳 1988年01月07日:唐沢商会「鋼鉄人間28号」平凡パンチ掲載} 1988年5月:唐沢商会「諸国怪態物語・河童の味」月刊ガロ 1988年6月:唐沢商会「ミミヅク小僧のバウケン」月刊ガロ 1988年6月9日:唐沢商会「漫才バスカビル家の犬」平凡パンチ 1988年6月18日:唐沢商会「新撰組始末記」月刊少年キャプテン 1988年7月:唐沢商会「諸国怪態物語・段吉の怪」月刊ガロ 1988年8月:唐沢商会「電気傾城」月刊ガロ 1988年9月:唐沢商会「大塚署長自身の事件」月刊ガロ掲載} 1988年11月:唐沢商会「原子馬鹿襲来」月刊ガロ掲載} 1988年11月5日:唐沢商会「しのびのもの」週刊漫画サンデー ■1989(昭和64〜平成元)年:30〜31歳 1989年1月3日:唐沢商会「2001年宇宙の正月」週刊漫画サンデー 1989年3月28日:唐沢商会「宗田村殺人事件」週刊漫画サンデー掲載} 1989年10月:唐沢商会「ぐるっと回ってジャガーの眼」月刊ガロ ■1990(平成02)年:31〜32歳 1990年2月「ようこそ、カラサワ薬局へ(徳間書店)」(→薬局通) 1990年8月:唐沢商会「あわびねこ」月刊ガロ 1990年10月「近未来馬鹿(青林堂)」唐沢俊一(作)、唐沢なをき(画) ■1991(平成03)年:32〜33歳 1991年4月:単行本「ZORO-ZORO(青林堂)」唐沢商会 1991年7月:単行本「マンガ年金入門」原智徳(監修)、鹿野景子(画)、唐沢俊一(作) ■1992(平成04)年:33〜34歳 1992年2月:単行本「脳天気教養図鑑(青林堂)」唐沢商会 1992年9月:単行本「ギロチン女(スコラ)」鹿野景子(画)、唐沢俊一(作) 1992年10月号〜雑誌「UTAN」で薬の秘密連載:〜1994年1月号 1992年12月「と学会連絡誌:創刊号」 ■1993(平成05)年:34〜35歳 1993年5月:単行本「原子水母」唐沢俊一(作)、唐沢なをき(画) 1993年5月「と学会連絡誌:第2号」 1993年9月:単行本「星を喰った男」潮健児(著)、唐沢俊一(編集・構成) 1993年11月:単行本「まんがの逆襲」唐沢俊一(監修) 1993年11月「と学会誌:1号」 ■1994(平成06)年:35〜36歳 1994年4月:単行本「森由岐子の世界」唐沢俊一・ソルボンヌK子(監修) 1994年8月「と学会誌:2号」 ■1995(平成07)年:36〜37歳 1995年:岡田斗司夫・眠田直と、おたく芸人ユニット「オタクアミーゴス」結成 1995年2月:単行本「女性自身ってば!?」唐沢俊一と『女性自身』広告審議会(著) 1995年5月:単行本「んかノ花園 原子水母2」唐沢俊一(作)、唐沢なをき(画) 1995年5月1日:単行本「トンデモ本の世界(と学会編)」と学会1冊目 1995年6月:単行本「ガメラを作った男」唐澤俊一(編著) 1995年8月:単行本「美少女の逆襲」 1995年8月「と学会誌:3号」 1995年10月:単行本「薬の秘密」 1995年10月:単行本「Kamidas」稲葉益巳(監修)、唐沢俊一・毛髪探検隊(著) ■1996(平成08)年:37〜38歳 1996年7月:文庫「薬局通(ハヤカワ文庫)」ようこそ、カラサワ薬局への改題 1996年3月:単行本「怪体新書」唐沢商会(作) 1996年3月:単行本「古本マニア雑学ノート」 1996年4月:単行本「トンデモ本の逆襲」と学会(編) 1996年4月:単行本「カルトホラー漫画秘宝館 かえるの巻」 1996年4月:単行本「カルトホラー漫画秘宝館 みみずの巻」 1996年4月1日:単行本「トンデモ本の逆襲(と学会編)」と学会2冊目 1996年6月:単行本「復讐医バロン」唐沢俊一(作)、新巻ゆたか(画) 1996年7月:単行本「蒸気王」唐沢商会(作) 1996年8月:単行本「トンデモ怪書録」唐沢俊一(著)、唐沢なをき(イラスト) 1996年8月:単行本「大猟奇」唐沢俊一(作)、ソルボンヌK子(画) 1996年8月「と学会誌:4号」 1996年12月:単行本「トンデモ超変態系」Brenda、Love(著)、船津歩(訳)、唐沢俊一 ■1997(平成09)年:38〜39歳 1997年02月:単行本「唐沢俊一のカルト王」 1997年03月:単行本「オタクアミーゴス!」岡田斗司夫・唐沢俊一・眠田直(共著) 1997年08月「と学会連絡誌:97年夏号」 1997年08月:単行本「カルトな本棚」同文社 1997年09月「と学会白書Vol.1」と学会3冊目 1997年10月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「聖なるカワ」掲載 1997年12月「と学会誌:5号」 ■1998(平成10)年:39〜40歳 1998年04月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「ある超常現象」掲載 1998年07月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「日本人よサッカーをやめよ!」掲載 1998年08月「と学会誌:6号」 1998年09月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「ハリウッド墓石観光」掲載 1998年11月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「前門の虎、コーモンのハムスター」掲載 1998年12月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「味の創造力」掲載 ■1999(平成11)年:40〜41歳 1999年01月30日:単行本「トンデモ本1999(と学会編)」と学会 1999年03月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「あるレスラーの死」掲載 1999年06月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「だらしない未来」掲載 1999年08月「と学会誌:7号」 1999年09月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「コンドールマンとリカちゃん人形」掲載 1999年10月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「バケ猫映画の最高傑作」掲載 1999年11月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「ねばねばの謎に挑む」掲載 1999年12月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「人生訓屋」掲載 ■2000(平成12)年:41〜42歳 2000年02月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「恐怖のカマキリ女」掲載 2000年04月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「Qは永久欠番なのだ」掲載 2000年08月「と学会誌:8号」 2000年10月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「玉」掲載 2000年11月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「マジックマッシュルーム」掲載 ■2001(平成13)年:42〜43歳 2001年03月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「お鼻が長いのねぇ」掲載 2001年04月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「おふくろの味」掲載 2001年06月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「壁に耳あり」掲載 2001年08月「と学会誌:9号」 2001年09月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「プロレス怪人物列伝」掲載 2001年10月2日:単行本「トンデモ本の世界R(と学会編)」と学会 2001年10月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「名言」掲載 2001年11月00日:単行本「社会派くんがゆく! (アスペクト)」村崎百郎との共著 ■2002(平成14)年:43〜44歳 2002年02月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「有名人奇行集」掲載 2002年03月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「毎日毎日」掲載 2002年04月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「進化するミニチュア」掲載 2002年07月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「フロイトの葉巻」掲載 2002年08月「と学会誌:10号」 2002年08月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「ちょび髭」掲載 2002年10月07日:深夜番組として『トリビアの泉』が放送開始される(〜2003年3月17日)一般的に唐沢俊一の「トンデモ1行知識の世界」続編「〜の逆襲」が番組の元ネタのような扱いを受けているが、実際にはこの本から使われた知識は極少ない。というものどうやら、番組で放送するにあたって検証した所、使えない雑学ばかりだったのではないか?と囁かれている。 2002年10月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「アタマのよくなるクスリ」掲載 2002年11月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「妄想力」掲載 2002年12月「と学会誌:2002冬の増刊号」 2002年12月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「大阪粉食文化」掲載 ■2003(平成15)年:44〜45歳 2003年03月00日:単行本「社会派くんがゆく! 激動編(アスペクト)」村崎百郎との共著 2003年03月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「スパゲティの食べ方」掲載 2003年06月「と学会誌:11号」 2003年06月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「チワワ伝説」掲載 2003年07月2日『トリビアの泉』がゴールデンで放送開始(〜2006年9月27日) 2003年07月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「一点集中」掲載 2003年12月「と学会誌:12号」 2003年10月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「帽子と人格」掲載 2003年11月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「共産主義のヒロイン」掲載 ■2004(平成16)年:45〜46歳 2004年02月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「なぜハゲは、セックスが強いか」掲載 2004年02月24日:単行本「社会派くんがゆく! 死闘編(アスペクト)」村崎百郎との共著 2004年04月号「モノ・マガジン」お怪物図鑑「機械たちの顔」掲載 2004年06月13日:単行本「トンデモ本の世界T(と学会編)」と学会 2004年06月13日:単行本「トンデモ本の世界S(と学会編)」と学会 2004年08月「と学会誌:13号」 2004年09月05日:単行本「お怪物図鑑×物々冒険記」弟との共著 2004年12月「と学会誌:14号」 2004年12月19日:単行本「社会派くんがゆく!逆襲編(アスペクト)」村崎百郎との共著 ■2005(平成17)年:46〜47歳 2005年5月:週プレ連載『名も無く美しいニュースたち』始まる 2005年5月14日:唐沢日記にバーバラ・アスカ初登場 http //www.tobunken.com/diary/diary20050514000000.html 2005年6月「トンデモ本白書2005」 2005年8月「と学会誌:15号」 2005年10月:ラジオ「ブジオ! (TBS)」始まる 2005年11月10日:バーバラとのトークイベント「古書と新刊の話」 2005年12月「と学会誌:16号」 2005年12月22日:単行本「社会派くんがゆく! 維新編(アスペクト)」村崎百郎との共著 ■2006(平成18)年:47〜48歳 2006年3月:ラジオ「ブジオ! (TBS)」終わる 2006年4月:ラジオ「唐沢俊一のポケット(TBS)」始まる 2006年5月2日:週プレ連載『名も無く美しいニュースたち』終わる 2006年6月「と学会アーカイブス・1」 2006年8月「と学会誌:17号」 2006年9月:「知るを楽しむ (NHK教育)円谷英二 特撮の神様」 2006年12月「と学会誌:18号」 2006年12月22日:単行本「社会派くんがゆく!乱世編(アスペクト)」村崎百郎との共著 ■2007(平成19)年:48〜49歳 2007年2月「唐沢俊一の雑学王(広済堂)」 2007年3月1日「三丁目の猟奇」唐沢俊一 (著), ソルボンヌK子 (イラスト) 2007年3月30日:ラジオ「唐沢俊一のポケット(TBS)」終わる 2007年4月「史上最強のムダ知識(廣済堂出版)」 2007年4月「と学会年鑑ORANGE(楽工社)」 2007年4月23日「オタク論! (創出版)」唐沢 俊一と岡田斗司夫 の対談 2007年5月『新・UFO入門(幻冬舎)』 2007年6月「と学会アーカイブス・2」 2007年6月4日:『新・UFO入門』の文章盗作が被害者ブロガーによって発覚 2007年8月「と学会誌:19号」 2007年10月10日:単行本「トンデモ本の世界V(と学会編)」と学会 2007年10月10日:単行本「トンデモ本の世界U(と学会編)」と学会 2007年11月28日放送:テレビ朝日系「Qさま!」で、ワシントンを殺す 2007年12月15日:単行本「トンデモ版・ユーチューブのハマり方(白夜書房)」 2007年12月20日:単行本「社会派くんがゆく 復活編(アスペクト)」村崎百郎との共著 ■2008(平成20)年:49〜50歳 2008年1月、『創』2月号で唐沢俊一が自分の盗作を棚にあげネットでの批判を批判 http //www13.atwiki.jp/tondemo/pages/39.html 2008年1月30日、読売新聞にいじられる http //www.yomiuri.co.jp/net/feature/20080130nt0e.htm 29 名前:無名草子さん[] 投稿日:2007/12/16(日) 23 19 16 25 の 1981年以降と、 26-28 は、別冊宝島『投稿する人々』に掲載されたこれ↓のまとめ。 唐沢自身の手によって綴られた「あえて『ガンダム嫌い』の汚名を着て」というのが、 P.183以降に載っている。 そして、世は争いを好まないオタクたちの、不完全燃焼型あてこすり合い文章を中心とした 論争時代へと以降していたのであった。 ……この時代の論争の典型例を作った人物がひとり、いる。それが、自分であるところが 情けないが。 最終的に富野喜幸、手塚治虫という大物までがコメントをつけた、ということでも、オタク史に 残るものであろう。名のみ有名なその論争のその経過を、論争の張本人である筆者自身から、 ちょっと詳細にドキュメントしてみたい。 ……さあ、ここで地雷を踏んだ。ナンとあの『機動戦士ガンダム』をけなしたのだ。 考えてみると、この当時の僕は『ゴジラ』と『ガンダム』をケチョンケチョンに言って いるのである。よくまあ十八年後のコンニチ、すました顔で“オタク界の大物”なんぞと 言われて鎮座していられるものだ。しかし、当時の僕が、このガンダムにどうしようもない 嫌悪感と、“これは僕が好きだったSFアニメとは違う”という違和感を持っていたことは 事実なのである。 30 名前:無名草子さん[] 投稿日:2007/12/16(日) 23 20 24 普通の人が読まない本を読んでいたという自慢はしている 『カルトな本棚』三人の唐沢が対談しているという趣向 ------引用-----P145-148----- 唐1:昔から、みんながやっているから、とか読んでいるから、とかいうの、 キライだったよね。夏休みの読書感想文とかの題材に選ぶ本がそうだった。小 学校の6年のときだったかな。読書日記を書かされて、そこに並んだ本という のが、ジェロームKジェロームの『ボートの三人男』に獅子文六の『てんやわ んや』、それから『朝鮮童話集』(笑) 唐3:担当の先生に『もっときちんとした本を読みなさい』と言われたっけ。 中学に入ると『世界奇談集』みたいな本ばかり読みはじめたな。その一方で、 読書委員かなんかに任命されて、クラスの連中には「世界名作を読め」と押し つけていた。イヤなヤロウだった(笑) 唐2:星新一を中学年のとき、学校図書館に置こうと運動したよね。おかげで 『ボッコちゃん』とあと何冊か、それに筒井康隆が入った。 唐3:よくツツイが入ったなあ。 唐2:いやポプラ社の入門シリーズの『SF入門』だったけど。あれは自分が 読みたくて入れた。 唐1:で、クラスのみんなが星新一の真似してショートショート書くあたりに なると、もう別の方へいっていたり、な。(続く) 31 名前:無名草子さん[] 投稿日:2007/12/16(日) 23 20 57 ( 30 続き) 唐2:中学のあたりってなんとなくストイックで、ひとりの作者にハマると、 もうそればかり読んで、他の作家の話をしなくなるヤツが多かった。それはイ ヤだったんだよ。 唐3:でも、文体ではかなり多くの人にハマったよな。『吸血鬼ドラキュラ』 を創元推理文庫で読んで、平井呈一の文体にしびれたり。 唐2:古風な文体にハマる傾向があったな。坪内逍遙の『ハムレット』も、わ ざわざ一番最初の、浄瑠璃調の翻訳のやつを探し出して読んでみたり。……こ れは高校のころだけど。 唐1:そうそう。SFえも、今日泊亜蘭の『光の塔』とか、好きだった。エアカ ーで"茶店"の前に乗り付けて、"婆アさん、渋茶をくんねエ"なんてやるヘンな の(笑) 唐2:山田風太郎の忍法小説にハマったのもそこいらか。忍法小説の中に医学 用語が入るの顔も白くてね。そのあたりになると、クラスのみんな、こっちの 読書傾向についてこなくなったな。 唐3:話して聞かせると、みんな笑うんだよな。でも、貸してやるから読んで みろ、と言っても読まない。どうも、自分の読書傾向は特殊らしい、と気が付 いたのが高校2年くらいのときだ。 唐1:いや、"貸してやるから"とはもう高校の頃はいわなくなっていたんじゃ なかったか? ------引用終わり------ http //love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1197812577/24-31 51 :無名草子さん :2007/12/04(火) 19 21 59 大本営発表は、知らない人が聞けば「そうなのか」と思う物ばかり。 唐沢のプロフィールは、ネット初期にはハッタリとして通用していたんだろうけど ネットが発達しで現状では (少なくともこの5年ぐらいで過去の文献までネットに登場するようになった) そのレベルのウソはすぐばれるようになってしまったんだよね。 ここでこうやって検証されなかったら、殆どの人が本に書かれている事を 信じるしかなかったでしょ? ペリーローダンのファンクラブなんて、過去のSFマガジンを全部チェックする なんて今までなかったから、バレなかったし、 Wikipediaで宇宙戦艦ヤマトの再評価が兵庫県などのサークルが始めたとか 書かれていなければ 「へぇ唐沢って名前が売れる前からそんな地道な活動していたんだ」 と信じるしかなかったからねぇ そんなウソをついてきた唐沢は自己暗示でマジに「自分はオタクの歴史を作ってきた」 と思いこんでいるくさい 盗作屋 唐沢俊一15【ワシントンを「殺」した男】 総計: - 今日: - 昨日: -
https://w.atwiki.jp/fantasyquest/pages/85.html
クエスト名 内容 褒賞 経験値 銀貨 アイテム 勝利の星1 道場で10回勝利した。 ×10 勝利の星2 道場で50回勝利した。 ×25 勝利の星3 道場で100回勝利した。 ×50 勝利の星4 道場で200回勝利した。 ×100 勝利の星5 道場で300回勝利した。 ×160 試練石×1 成功の元1 道場で10回失敗した。 ×10 成功の元2 道場で20回失敗した。 ×20 成功の元3 道場で100回失敗した。 ×30 成功の元4 道場で200回失敗した。 ×40 成功の元5 道場で300回失敗した。 ×50 龍脳丸×1 修行の身1 Lv10に到達した。 ×100 修行の身2 Lv30に到達した。 ×200 修行の身3 Lv50に到達した。 ×300 修行の身4 Lv70に到達した。 ×400 修行の身5 Lv100に到達した。 ×500 返り討ち1 演舞場で挑戦者を破った。 ×50 返り討ち2 挑戦者を2回連続で破った。 ×100 返り討ち3 挑戦者を3回連続で破った。 ×150 返り討ち4 挑戦者を4回連続で破った。 ×200 返り討ち5 挑戦者を5回連続で破った。 ×250 天下無双1 武道大会準々決勝戦突入。 ×100 試練石×1 天下無双2 武道大会準決勝戦突入。 ×200 試練石×2 天下無双3 武道大会決勝戦突入。 ×300 試練石×3 天下無双4 武道大会優勝勝ち取り。 ×400 試練石×4 天下無双5 優勝を二度勝ち取った。 ×500 試練石×5 好みは蛙 能力値のリセットを行った。 ×120 変幻自在 五行の転化を行った。 ×120 お買い物 ショップで買い物をした。 ×120